”いきとも”®~ともに生きる~には明確な線引きがある事に私自身が気づきました。

私の獣医師としての経験と生きてきた中から

いきとも~ともに生きる~という言葉が生まれた。

(なぜそのような事を思うようになったか?!

ご興味がある方は過去のブログなどを見て下さい。)

”いきとも”は、

人と人・人と動物・人と自然などが

ともに生きる。

とはいうものの

「”いきとも”って漠然としていて、何?!」ってなるので

私なりに想う”いきとも”を7か条にしてみた。

【いきとも7か条】

☆人は動物~地球上の一種族

☆五感+共感が大事

☆どんな自分でも認める~自己承認

☆みんな違ってみんないい

☆同じ立ち位置で向き合う・・対等

☆笑顔・・笑って生ききる

☆周りにいい影響を与える~進化をめざす

この【いきとも7か条】

私が作ったものの、最近、

☆同じ立ち位置で向き合う・・対等

というのがすごく私の中でひかかっていた。


私は

☆人間は動物

っていう考え方で考えてみたら

対等や同じ立ち位置というのがあるのではないか?!

と思っていた。


しかし

最近すごくわからなくなっていた・・

そもそも、

他の動物などでも、

「対等」ということはありうるのだろうか?!という疑問。

人が動物を飼う時

動物は変われる人の思うように飼われることになる。

当たり前だけど、

飼われている動物は飼い主にすべてをゆだねることになる。

環境も食べ物も含めて生きていくことすべてをゆだねる。


私は獣医師として飼い主と牛の関係性で20年以上みてきた。

飼主にすべてをゆだねている牛。

自分の思うような飼い方をしてきた飼い主。

ある時、

飼い主が生産性をあげて儲けるために

飼い方を変えて牛の環境を整えることで

飼っている牛全体の生産性が上がり健康になっていった。

しばらくすると、牛たちだけでなく

飼っている飼い主側も生き生きとして元気になって行った。

そこから

”いきとも”~ともに生きる~が生まれた。


しかし、

その見方は甘かったのではないか?!

いろいろな経験をして、

井の中の蛙が大海を見て気づいたと言えばいいだろうか?!

私がみてきた牛たちと飼い主の関係性は

確かに”いきとも”だった。


しかし、

誤解を生むことを承知で書くとそれは

すごく”レベルの高い話”だったのだ・・。

牛たちの環境を良くして、

どんどん良くなっていって、

飼い主が元気になる・・


それは、

飼われている側にとっては

”いきとも”になる前の段階で

飼い主との関係性の中で

調教(私はこの言葉が好きでない)して、

食べ物や生活習慣であったりを

飼っている側の人間に飼ってもらわれやすいように

ルールや環境に従うということが

最低限必要なことであるということ。

それが、調教でありしつけ。

飼い主側のルールや環境に従えたものが

初めて、「家畜」になれる。

という【大前提】があることに気づいた。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

私は、

今まで「家畜」のことも触れてきたのに

そのもっとも根幹となる部分に目を向けれていなかった。

「家畜」という「調教」された牛たち。

そこに

真の自由はない。

しかし、そんな中でも

私が見てきた飼い主たちは

調教やしつけという関係性から

もう一歩進んで

飼主が現状より高い目標を持って

牛たちと「よりよい関係性」を築こうとしたのを

私はみていたのではないか?!

という事実に気づいた。

それは、

最初は半信半疑であったとしても

自分達が飼っている牛たちの「可能性」を

信じて引き出したということ・・・

飼っている側が

飼われている側に

より深く寄り添ったことで生まれた

調教から一歩進んだ関係性・・

私はそれを言語化したのだ。

そして生まれたのが

”いきとも”~ともに生きる~

という言葉だった。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

ペット(あえてこの言葉を使わせて頂く)の業界でも

分かりやすく言うなら

初めて動物を飼う人たちが、

最初の段階でしつけ(調教)が出来ないで

たいへんなことになっている人たちが多く存在する。

また、世の中を広く見てみると、

人の子育てや

いろいろな業界でもそうだ。

それは、

どんな動物であっても

生まれてから親や仲間に

育てられる中で、

生きていくための掟(ルール)を学ぶこと。

それを人では

しつけといわれ、

☆自分でご飯が食べられる

☆自分でトイレに行ける

といった最低限自分でできないと、

直接、自分自身の生死にかかわり

それを自分でできないと

家族や周りにとっての負担となる。

だから、

調教やしつけは

絶対に出来るようになるか?!

もしくは

周りがその状況を受け入れて

お世話してもらうことになる。

それは、実は

周りにとっても、

本人にとっても

不自由であり、自由なことではない。

私が気づいたことは、

この世の中(少なくともこの国であったり地域社会は)

最低限のことが出来るという

過程の上に成り立っているということ。

私が見てきた動物と飼い主の関係は

そのような社会構造だから、

すごいことのように感じられたのではないか?!

そして、私には、

その様な関係性を指し示す言葉がないのが不思議だったので

”いきとも”が生まれた。


これは

見方を変えると、

家畜にとって

調教されることが当たり前。

人にとっては

しつけされることが当たり前。

それは、

人にとってのしつけは

社会の中でのルールを学ぶことで

動物にとっての調教でありしつけは

飼主を困らせないで飼われることで、

社会にも適応することを学ぶということ。


そこには、

形を示すだけの言葉しかなく

お互いがどのような存在であるのか?!という

【あり方】を示していない。

ペットや家畜といった

ものすごく陳腐で軽く意味がない言葉。

もしかしたら

ペットや家畜といったそれ以上の関係性を示す言葉がないから

それ以上の”いきとも”のような関係性が生まれにくいか

又は、今まで

そのようなすばらしい関係性を気づくことすら考えずにいて

望んでいなかったのではないか?!

そして、今までその様な関係性を築いてきた人たちは

一般的ではなく少数派であり特別だとみなされてきたように思う。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

そうなのだ!

「調教」「しつけ」

という段階を経て

そこから先

どのような関係性を結ぶのか?!

結びたいのか?!

そのもう一段上の

関係性を作ることが

”いきとも”


今まで私が言っていた

”いきとも”は

その根本である部分【ありかた】が抜けていた。

だからこそ、

☆同じ立ち位置で向き合う・・対等

というのにひかかったのだと、

今ならわかる。

対等になれたら素晴らしい!

けれど

そこには

どちらかがお世話をして

そして

そのお世話を受けた方が

それと引き換えに乳を出したり

心の安らぎを与えたり、

お金を払ったりしている。

これが現実。

だから実際には、

対等ではない。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

昨日ある人と話していて

「対等」ではなく

「補いあう」ということではないか?!

と言われて

その通りなのかもしれないと思った。

私の中での「対等」に対する

何となくの疑問があったからこそ、

私は自身が好きな言葉である

☆みんな違ってみんないい!

という項目を「いきとも7か条」に

いれたのではないか?!

【補いあう】という言葉を耳にして

だんだんと私の中で広がって行った。

しかし、

改めて考えると

いきとも7か条の中で

☆対等・・・同じ立ち位置で向き合う

という文章の中で、

同じ立ち位置で向き合う

というのが大事なのではないか?!

と気づいた。

真剣に向き合うからこそ見えて来るもの・・

調教であり

しつけである段階の場合、

調教すること以外(目の前のお世話以外のことを)

考えられていることは少ないのではないか?!

それが

私が対等でないと思う理由だった。

しかし、

そうではなく

調教する側が、される側に対して

「どこまでできるのか?!」という無限の可能性がある中で

「本当はどこまでできるか?!」とか

「本当はどのような関係を築いてどうなりたいか?!」という

将来や目標を想像できていないことが原因なのではないか?!

と思うようになった。

もちろん最初からそのようなものは無理かもしれない。

しかし、調教をしていく中で

お互いを知る中で、

飼われている側の可能性を信じることや

未来に対する希望が生まれてくるのではないだろうか?!

私は当時、牛を飼うのはこうゆうものという

長年やって来た知識や経験や自らのルールに

がんじがらめになっていた農家たちとつき合ってきた中で

何かもう一歩進んだものを探していたのだろう。

いろいろなセミナーに参加して、

当時としては、新しかった”カウコンフォート”

という技術に出会い、それを信じてくれた農家が

実際に行動してくれたことで

”飼われている牛が健康になっていくと飼っている農家が元気になる”

と気づいたのだ。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

少し話を変えよう・・・

ノミは

本来すごく高く飛べるらしい。

しかし、

コップなどで蓋をすると

最初はコップの天井にあたっているが、

そのうち、あたらなくなるらしい。

そして、

そんなノミのコップを取ってやると

コツプの天井があると学習しているノミは

コップの天井より高く飛ばなくなるらしい。

そんな高く飛べなくなったのみが

再び高く飛べるようになるのには、

他の高く飛べるノミと一緒にしてやると

再び飛べるようになるというのを何かで知った。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

調教され学習することで、

家畜化されて出来ることが増える。

それはいいことだけれど、

飼主(調教する側)が

される側に対して、

そこから先どのような関係を築きたいのか?!

が想像できていないと

”いきとも”~ともに生きる~にはなれないで

家畜かペットという状態のままのような気がする。

これは、

実は雲泥の差なのだ!

それは、

飼主であり、関わる人間が

相手に対してどのような想いで向き合うか?!

という

これまた当たり前のことに戻ってしまう・・・。

ここのところに

純粋に相手への想いがあるか?!

それを私は、

対等…同じ立ち位置で向き合う

とした。

しかし、

もしかしたらにお互いが【補い合う】というのが本当なのかもしれない。

これは、

言葉での適宜のようであって

人によって受け取り方も違うかもしれない・・・。

でも、本当は言葉を超えた

【これ!】という感覚的なゾーンがあるのだと思う。

そのような関係性が気づけたときに

「それはあの人だから・・」

「あそこは特別だから・・」と

今までならなってしまうケースが多い気がする。

だからこそ

今まで言語化されてこなかったのではないか?!

だからこそ、

今、あえて”いきとも~ともに生きる~

と言語化する必要があるのではないか?!

と改めて思うようになった。

いろいろと考えながら

書いたので、同じことの繰り返しになった。

しかし、私の中で

それぐらいに大事なことであり

何とか伝えたいと思うところなのだと理解して

暖かい心で読んで欲しい。


最後まで読んでいただいた皆様には感謝しかない。

そして、

私から生まれた”いきとも”がなぜ必要なのか?!

なぜ意味があるのか?!


私自身が自分自身に日々問いかけながらも

今の世の中だからこそ

”いきとも”が必要だと思うし

増えることで娘やその次の世代に

現状より良いものが伝えて残していけると信じているので、

ぜひ、”いきとも”になって欲しいと思う。



“変わりもん“

今まで生きてきて、本当の自分に目を向けると,我儘で,自分勝手で,人の言うことは聞かない!自分の好きなことしかしない!等々、普通じゃない「変わっている」と言われるのが怖かった。でも、自分の中で吹っ切れたら、もういいか・・って思え、そうすると世の中では意外とみんなそんなもん!で実は、怖さから無理して枠の中に収まろうとしているんじゃない?!って思い、皆が“変わりもん“がいいじゃない!?って思うんです。

0コメント

  • 1000 / 1000